『紫雲明かりて』
デートの帰りに居酒屋へ寄った。特に馴染みでもない店。一人で飲みたい気分になった・・・・・・のではなく、友人夫婦に誘われていたからだ。
「なんだぁ。連れてくればよかったのにぃ〜。会いたかったな。カノジョさん」
いつもよりも少し高い声とテンションで女性が言う。親友の奥さん、マヒロだ。
「いや、カノジョ明日仕事で早いんだ。・・・・・・ナマ二つお願いします!」
と、ジョッキに指二本くらいしか残っていなかった親友、ダイキの分まで注文をした。
「でもホント、久しぶりだな。こうして三人で飲むのは」
つまみの〆サバをボクの前にずらしながらダイキは続ける。
「前はバカみたいに飲んで歌って騒いだからな」
ボクとダイキは学生時代からの友人で気が合い、よく遊んでいた。音楽の好みも合った。知る人は知る、とあるインディーズバンドのライヴにも何度か一緒に出掛けたのだが、そこでマヒロと知り合った。どうしてか、単にやはり気が合ったのか、それから三人で遊ぶようになり、ほどなくダイキとマヒロは恋人という関係になったのだ。マヒロはボクにも恋人をと何人か知人を紹介してくれたがなかなか付き合うには至らず、結局また三人で飲み、歌い、騒いでいた。
そうしてそれぞれ社会人となり月日は流れ、なかなか三人で集まることも減った昨年、二人は結婚した。新婚旅行があり出張があり、それぞれの生活があり、実に半年振りに三人で会うことになったのだ。それでもこうして飲んでいるとダイキもマヒロもあの頃と変わっていない。心がほぐれ、学生時代に戻ったような気がした。
「明日休みだろ? 家に来いよ。泊まっていけよ」
「そうね。まだちゃんとご招待してないしね」
「おいおい、こんなに酔っていてちゃんとも何もあるのかねぇ」
思い思いの言葉を口にしながら、あのときのように三人は勝手にメロディーを口ずさみつつ、場所を新居に移して飲みなおした。ダイキとマヒロが付き合いだした日のあのインディーズバンドの解散ライヴの話から、今は二人でお金を貯めて子供は来年の終わりか再来年くらいにという展望まで、親密な時間は進み、夜は更けていった。
「寝ちゃった。最近めっきり弱くなって早いんだけど、今日はまた格別だったみたい」
マヒロは9割方眠りに落ちたダイキをうまくたしなめながら寝室に連れて行き、台所から赤ワインとグラスを二つ持ってきた。とりとめのない話をしながら2〜3杯あけると自分も酔いがまわってきているようで、いつもよりも、あの頃よりも饒舌になっているのが分かった。分かったところで止められるものでもないのだけれど。
「さっきさ、ちょっと感動したな。ほとんど酔いつぶれたダイキをうまいこと寝かしつけてさ・・・・・・マヒロとダイキの二人が重ねた時間なんだな、と思ったよ」
「おおげさー!」とマヒロは少し目を細めて笑った。
「いやいや、そういうところにも幸せのカタチって見えるのかな・・・・・・って思ったんだ」
そういいながらマヒロのグラスに注ぐ。
「ありがと」
ボクとマヒロがほぼ同じタイミングでグラスを口につける。少しの沈黙の外を、深夜を急ぐトラックが走る音が流れていった。
逆にマヒロがボクにボトルを勧めながら口を開いた。
「ねぇ。カノジョさんとはどうなの?」
どうなのだろう? ボクにもわからない。しかし感覚が言葉になっていた。
「うん・・・・・・違う、気がする。たぶん・・・・・・別れると思う」
心のどこかに在りながら敢えてハッキリと意識はせずに先延ばしにしていた感覚だったが、意図せず言葉として出てしまった。
「えー。どうして?」マヒロは当然訊いてくる。
あるいはマヒロを超える存在を求めてしまっているのだろうか。いや、求めているというよりも、そうでなければいずれ相手を不幸にしてしまうだろうという観念かもしれない。ダイキとマヒロが付き合いだしてから少ないながらも何人かの女性と接してきたけれど、常にその観念は付きまとってきた。ボクが幸せにしたいと思える、ボクが幸せになれると思える、無条件に心が震えるような「何か」が足りないのだろう。足りないのはボクになのか、相手になのか・・・・・・。
「ねぇ。私とダイキと付き合いだしてしばらくしてからなんだけど」
「うん?」
「私も感じていたしダイキともよく話してたんだけど」
「うん」
「ダイキは私を好きでいてくれて私もダイキを好きで、それはかわらないんだけど」
「うん」
「でもね、何かが少し変わったら――例えば解散ライブの最後の曲が違う曲だったら――もしかしたら私たちが付き合ったりすることもあったのかなって思ったりもしたよ」
「・・・・・・そう、かな?」
グラスに目を落とし、ふちを指でなぞりながらマヒロは続けた。
「私たちの運命を決めることって、意外にそんな些細なものかもしれないなって思うんだ。何かのタイミングとか、ほんの少しのちょっとしたことで、もしかしたらあの人じゃなくてもう一人の人を好きになっていたかもしれないなーって」
あの頃のボクの恋は叶わなかったけれども、その後も友人として、親友の恋人として心を許してきたマヒロ。酔いもかなりまわっていたのかもしれない。無条件に心が震えて、マヒロを抱きしめたくなった――いや、どうやら実行しようとしたようだった。
「ほらダメ。人妻なんだから」
マヒロは軽く、しかししっかりとボクの肩を抑えて、優しく笑った。ボクは自分がしようとしたことが恥ずかしくなり、わざと拗ねたように横になった。
「ちぇ。なんだよー。人妻かよっ」
ワイングラスをずらす音と一緒にマヒロは続ける。
「そうよ。だからね、そのカノジョさんとはどうか分からないけど、きっと運命的なささやかな何かがあるよ。本当にそう思うんだ」
横になったまま、酔いに任せてこのまま眠ってしまおうか。まだ起きていられるくらいだけど、このまま眠ろう。そう決めてひとつあくびをはさみ、わざと眠そうな口調に切り替えて話すことにする。
「うん。オレも・・・・・・そう思ふぁよ・・・・・・。マヒロ以外には・・・・・・まだふぁ、・・・・・・うん、まださ、そーいふ女の子とさぁ、出会ってさふぁ、ないんだろうなぁー・・・・・・って」
「きっと、必ずあるよ。私たちが保証する。絶対に幸せになるよ」
「なりたいな・・・・・・うん・・・・・・なりたい・・・・・・な」
意識はまだハッキリしていたけれど、そのまま眠った振りを決め込むことにした。
しばらく。定期的な寝息のボクを確認したマヒロがボトルとグラスをそっと片付ける音が聞こえた。そしてどこからか毛布を持ってきて仰向けに寝ているボクにかけてくれた。すっと横に腰をかけ、軽く髪の毛をなでてくれる。そのままどのくらいの時間だろうか、
「おやすみ」とささやく声が耳の近くにそよいだ後、そっと唇がやわらかいあたたかさに触れた。マヒロの唇に間違いなかった。
たった一度、かすかにつむいだ。それだけだが確かな感触だった。あるいは数年前の、少し違った運命からこぼれだした微かなくちづけだったのかもしれない。束の間、マヒロは寝室に戻っていった。ダイキのいる場所へ。
ボクは完全に寝静まるのを待ってから起き上がり、二人の家を後にした。東の空に棚引く雲がほのかに明るく、まもなく訪れる新しい日の始まりを告げようとしていた。